首都ルサカの盲目の物乞い。
ルサカの街は官公庁や銀行など大型の建物があり、道路、住宅も整備されている。
こういう街は宿を探すのに苦労する。
やっと見つけた宿は値段が高め。
でもまあ仕方がない。
散策に出てもルサカの区画整理された大づくりな街並みはてんで面白くない。
人々の暮らしが見えない。
生活の息遣いが感じられない。
でもルサカの街だって僕を(訪れる旅人を)楽しませるためにあるわけじゃない。
こういう時は潔く散策を切り上げるに限る。
銀行でトラベラーズチェックを換金し、さっさと宿へ戻ろうと歩いていた。
その人を見たのは、大きな幹線道路の歩道だった。
街の中心からすぐの幹線道路には車がひしめき、広い歩道も行き交う人で混雑している。
歩道の隅に、小柄で痩せた老父の物乞いがいた。
ここまでのアフリカの旅で老人はほとんど見かけなかった。
その珍しさに加え、もう一つ老父の物乞いには特徴があった。
彼の眼窩に2つの眼球は存在しておらず、そこには落ちくぼんだ暗い穴が2つ実在し、視覚が失われていることは誰の目にも明らかだった。
地べたに正座し、両手を前方に突き出して手のひらでお椀をつくり、生きるために、物を、お金を乞うていた。
そのしぐさからは施しを得るため憐れみをより増大させる目的が感じられたが、その目的は達成されており、首都ルサカの雑踏の中、彼の姿はとても憐れだった。
僕は旅に出る時に、
“物乞いには何もあげない”
というルールを定めていた。
(それが正しいかどうかはわからない。)
そしてそれに付随して、
“何もあげずとも、物乞いが存在しないかのようにふるまわず、正面から見据え、認識する”
というルールもまた定められていた。
現実を直視することはこの旅の大事な要素であったし、また、どのような人であれ相手を認識することは人として最低限の礼儀であるように思えたので。
旅のルール以外にも、個人的にグッとくるものがあり、僕はその老父の物乞いをしばらくじっと見つめた。
それから何もあげずに、その場を立ち去った。
『家族はいるのだろうか。』
ということが気になった。
さて、あなただったらどうしますか?
“物乞いに物をあげれば彼らは物乞いを続けるので問題の抜本的な解決にならない”
という論理は、
”今日食べるものがあるかないか”
という圧倒的な生死の間際に立つ人間からすれば、遠く離れたキレイな場所で論じられたキレイゴトでしかないのだ、と僕は思った。