もったい。
今年は酉年、羽ばたきますミカミです。
でも鶏って飛べないのでやっぱり地道に歩いて行くしかない気がします。
師匠は平飼い養鶏もしていて、少ないときで日に100個くらい、多いときは日に180個近く有精卵がとれます。
収穫した野菜の調整作業で出た野菜くずも鶏に与え(メインのエサは発酵飼料)、鶏糞を肥料として畑へ還しています。
鶏も食べない野菜くずは梅の木畑にまきます。
最初は捨てているのだと思っていました。
が、よく見ると梅の木の根が伸びているあたりを狙ってまいているので、いずれ分解されて梅の木にその養分を吸わせる意図がありまいていることがわかります。
寸分も有機物を無駄にせず土に還しています。
ご飯を食べ残して捨てるなど、まだ使える物を粗末に扱うことを
”もったいない”
と言います。
では”もったい”とは何でしょう?
漢字で書くと
"勿体"
“勿”は、”ない”の意。
“体がない”ことを表しています。
コトバンクによると”もったい”の意味は、
- 外見や態度の重々しさ。
- 態度や風格。また、物の品位。
となっています。
ふ~む…
これらを調べる前は、“もったいない”という言葉は
まだ有用な物を無駄にしてしまい『残念がっている』ように聞こえていましたが、
調べてみた後には、
その行為は物の品位を損なってはいないか、と『たしなめている』ようにも聞こえます。
なかなか含蓄のある言葉です。
できる範囲で、日ごろから勿体のある暮らしを心がけたいと思うのは勿論のことです。
男女の関係は冷めてから!?
こんばんは、雨が多かったせいかナメクジが何匹も台所やお風呂場に出現し、おハナさんに塩をかけられ粛々と粛清されていた家の世帯主ミカミです。
今から梅雨が怖いです。
雨あがりの畑ではカボチャを定植しました。
周りに生えているのは雑草ではなくて緑肥のヘアリーベッチ。
師曰く、土を肥やすためと、カボチャのつるを巻きつかせるためという2つの理由から編み出した方法。
僕も緑肥は積極果敢に取り入れたいと思っています。
じゃがいもの芽かきもしました。
(これは芽かき前)
あとは草刈りをしたり春どり大根を収穫したり。
春どり大根は勿論とう立ちの遅い品種ですが、そこは植物、いつまでも大丈夫なはずはなく遅ればせながら花を咲かせようと、徐々にとうが立ち始めています。
師曰く、あくまで野菜の少ない端境期をしのぐための”つなぎ”でしかない。
一儲けをしようと端境期収穫狙いで大量に植え付けをするのなら、とう立ちして商品価値がなくなる前に売り切る必要があり、つまり短期間で大量にさばける売り先がないといけません。
まあそんなどこそこにうまい話が転がっているはずはなく、まずはやっぱり地道にコツコツとやるしかないです。
作業終了後、師匠と焼酎をチビチビ吞みながら採りたての大根を一口大に切って生のままポリポリ食べる。
『マヨネーズをつけると案外いけるね。』(師匠)
「そうですね。塩だけもありですよ。」(僕)
この時期の大根は水分が少なく、煮物よりも炒め物に向いているとのこと。
『何でも自分で食べてみないとわからん。』
と師匠。
僕がこの前サトイモの煮っ転がしをつくって食べたことと、
冷めてからの方が(味が良くしみ込んで)おいしかったことを伝えると師匠は、
『まるで男女の関係のようだな。』
と、奥が深いんだか、ただの酔っ払いなんだかわからない発言をして笑っていました。
作業終了後にときどきあるこのちょい呑みタイムに僕はわりと癒されています。
サトイモの煮っ転がし。
こんばんは、落し蓋もなんのその、師匠から頂いたサトイモでサトイモの煮っ転がしをつくって食べたミカミです。(雨で研修がお休みだったので)
あとはご飯と焼いたサバとからし菜のお漬物と野菜たっぷりお味噌汁の夕ご飯でした。
ごちそうさまです。
別にそういう目的で料理したわけではありませんが、実際に料理してみると野菜を買う消費者側の目線に立てるので勉強になります。
皮を剥くのにちょうど良い大きさはこれくらいだな。
(小さすぎると剥きづらいし、『いったい何個剥かなきゃならんのだ』、となる。)
とか、
ちょうど良い1袋の量はいいとこ300~400gだな。
(それより多いと『そんなにたくさん皮剥くの嫌だな』となりそう。)
とか。
はい。
とどのつまり皮を剥くのが面倒でした。
でも考えてみれば、3月に植えて10月・11月まで畑で栽培して収穫するサトイモ。
その後、適温に保った貯蔵庫で4月まで保存されたサトイモ。
それに比べれば皮を剥く手間なんてかわいいもんです。
こう思うのは生産者側の意識が僕にも芽生えているのでしょう。
その証拠に、剥き終わった皮を見て
『生ゴミ堆肥にして畑に還したい~。』
と思ってしまいました。
なにはともあれ、おいしいですよ、サトイモの煮っ転がし。